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「ねえ、手塚」 「ん?」 練習が終わってユニフォームを脱ごうとしているところで突然声を掛けられて、手塚は思わず声のする方を振り返った。 いつの間に歩み寄ったのか、鈍く光を反射する黒縁の眼鏡をかけて小さなノートを手にした乾が真後ろに立っていた。 彼があまりに近くにいたことに少し驚く。 ―― どうしてこう気配がないんだろう、コイツは……。 そんなことを考えながら「なに?」と返事をした。 「手塚のお父さん、おでこ広い?」 「…………?」 てっきり部活関連の話題が出てくると思っていた手塚は、予想外の言葉に一瞬混乱した。 「おでこ、広い?」 無表情のまま、乾はたたみかけるように聞いてくる。 「……普通、だと思うけど」 意味の分からないまま手塚は答えてみた。 「そう」 それだけ言うと乾はしばらく顎に指を当てて黙り込んでいた。 一体何なんだろうと思いつつ、考え込んでいるらしい乾に手塚は声を掛けられない。 そのまま動きそうにない乾を見ていても埒があかないと思った手塚は、とりあえず着替えの続きをすることにした。 が……。 「あのさ、手塚」 続きを始めた途端、乾が口を開いた。 「手塚の右のおでこ、去年より0.3mm後退してるんだ。知ってた? 0.3mmだ」 「…………」 「後退ペースが少し速いと思うんだ」 「…………」 「手塚?」 頭のいい手塚でも、今回の乾の話にはついていけなかった。 「手塚、聞いてる?」 「……ああ」 「このままいくと、数十年後にはマズいことになるよ」 そう言いながら、乾は持っていたシャーペンで自分の右のおでこを指した。 ―― 右のおでこだけが禿げるとでも言うのか? 手塚はそんな自分の姿を想像してしまい思わず眉根を寄せる。 ―― カッコ悪すぎ……。 「左右の分け目、変えた方がいいよ、ときどき」 そう言い残して眼鏡を光らせながら乾は部室を出ていった。 それをしばし呆然と見送った手塚は、ハっとしてロッカーの扉の裏についている鏡を覗き込み、パパっと前髪の分け目を変えてみた。
一体いつ分け目を変えたんだろう、と思たりしたもので……。 (5.4.2003)
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