汗をかいたグラスの中で、溶けた氷が崩れてカランと小さな音を立てた。
頬杖をついてそんな様子をじっと見ていた手塚は差し込んであったストローをくるくると動かしてわざと氷の音を出してみる。
カラカラ……と氷とグラスが触れ合う涼しげな音が室内に響いた。
「クラッシュド・アイスの方がいいなぁ……」
ぽつりと呟いて手塚はストローを止めた。
「グラス、換えてあげようか?」
ふいに後ろから乾の声がして手塚はギクリとして肩を竦めた。
「い、乾さん?」
振り向くと同じようなグラスを手にした乾が手塚の顔を覗きこんでいる。
一人だと思っていた控室にいつの間にか乾がいたことに驚いて唖然としてしまった。
「クラッシュド・アイスの方がよければ作り直してあげるけど?」
「あ、いいえ、いいんです。何でもないです、独り言ですから……」
ぶんぶんと首を横に振るのを乾が可笑しそうに見下ろして、くすりと小さく笑うと大きな手をぽんと手塚の頭に乗せた。
「じゃあ、今度はそうしてあげるよ」
そう言いながら手塚の向かい側の椅子に腰を降ろす。
まだにこにこしている乾をちらりと見て、手塚は目の前のグラスを引き寄せて残っているオレンジジュースを一気に飲んでしまった。
「……っ」
急にこめかみに痛みを感じて思わず手を添える。
「一気に冷たいのを飲むからだよ」
「…………」
苦笑まじりの乾の言葉に、手塚はじっと手元のグラスを見つめながら黙っていた。
いつもだったら乾の言葉にいろいろな質問をしてくるのに、ここ2、3日の手塚はどうも様子がおかしい。
まず口数が少ない。
そしてそれに反比例するように溜息の数が多い。
「どうかした?」
「え?」
手塚が顔を上げると首を傾げてにこりとしている乾と目が合う。
「……なんでもありませんけど」
見るからに何でもなくはない手塚の様子に乾が軽く溜息をついた。
それに気づいた手塚は、内心では心配してくれる乾に悪いなと思いながらも、
「休憩時間が終わるので……」
と言いながらグラスを片付けてそそくさと控室を出て行ってしまった。
残された乾はもう一度、今度は大きな溜息をついて既に閉じられてしまったドアを見つめた。
「手塚くんの様子……ですか?」
「はい。このところ何か気になることがあるようで、一人でぼーっと考え込んでは溜息ばかりついているんです」
「そう、ですか……」
机の上に広げていた本をパタンと閉じて、大和は指を唇に添えてしばらく黙り込んでしっまた。
そんな様子から、乾は大和がその原因を知っているのだと直感で悟った。
「何か、お心あたりでもありますか?」
「…………そう思いますか?」
「はい、思いっきりそう思います」
平然と言いのける乾を見上げて大和は困ったなぁとでもいうように、こめかみのあたりをぽりぽりと掻きはじめる。
この状態は大和が何か手塚を悩ませるか怒らせるかするようなことをしてしまったからに違いないと、普段は大人っぽい素振りを見せる彼のこんな子どものような仕草に乾は笑いが込み上げそうになってしまった。
しかし、それをなんとか堪えて咳払いを一つすると、
「お心あたりがあるならなんとかしていただけないでしょうか。今のままでは仕事に差し支えてしまいます」
「といってもねぇ……。まあ、ほら、手塚くんのおっちょこちょいは今に始まったことでもないし」
「いいえ、今の状態はこれまでの比ではありません」
軽く流そうとした大和の言葉を乾がぴしゃりと抑えた。
「そうかなあ、あまり変わってないと思いますけど?」
「あなたの色眼鏡です。手塚が悩み始めてから今日で3日目になりますが、その間、割れたカップの数は2.1倍、皿の数は3.2倍、転んだ回数にいたってはもう……」
「あ、相変わらず細かいデータですねぇ」
あはは、と笑いながらも、どうしてそんな細かいデータが取れるんだ、そんなに手塚に一日中くっついているのかと大和は内心穏やかではいられなかった。
「笑い事ではありませんよ。このままでは私としても強硬手段に訴えなければならなくなります」
「え、なんですか、急に?」
突然の乾の改まった声に、さすがに大和もぎょっとしてしまう。
「手塚の再教育のために、全寮制のシスターズ・スクールに入学させます」
「はあ? な、なんですか、それは?」
「もとは貴族の令嬢を対象とした花嫁学校のようなものでしたが、現在は優秀なメイドを育て上げることで有名な学校です。卒業した者の多くが財政界の大物や企業のトップの家で……」
「分かりました!」
「はい?」
「乾くんの言いたいことは十分に分かりました。確かに原因は僕です」
可愛い手塚をそんな訳の分からない学校に入れられてたまるか、ましてや全寮制なんてことになったら……と慌てふためいているであろう大和の内心を想像して、再びクっと笑いが込み上げてきた乾だったが今回もなんとかそれを塞き止めてみせた。
そんな乾の様子に気づく余裕もなく、大和は大きく溜息をつくと椅子の背もたれによりかかって俯いてしまった。
「これは手塚くんのプライバシーに関わることですからね?」
そう呟くとちらりと乾を見上げた。
「はい。しかしお二人のプライバシーに関してなど私は既にイヤというほど見聞きしておりますので……」
「一言余計です」
「申し訳ありません」
ちっとも申し訳ないと思っていないような乾に、こういうところはなんとなく苦手だなあと吐息をついて大和はその「原因」を話し始めた。
「ん……っ」
大和を受け止める衝撃に手塚の瞳がぎゅっと閉じられて、その背中に回されていた腕にも力がこもった。
「ほら、手塚くん。身体の力を抜いて? 足、もう少し広げられるでしょう?」
「は…い……」
甘すぎる快感と羞恥に頬を染めながら手塚は言われた通りにしようとするものの、感じすぎている身体は思い通りには動かないらしい。
大和はくすりと笑って手塚の耳に唇を寄せて舌をそっと差し込んだ。それと同時に背中に回していた手で背骨のラインをスっと逆撫でしてやる。
「あ……」
身体がびくりと震えて、一瞬だけ緊張の解けた隙をついて大和が一気に腰を進めた。
「あぁっ! や……っ」
再び手塚の全身に力が入ってしまい、それは収められたばかりの大和の熱をキュっと締めつけてくる。
「くっ……」
何度も身体を重ねて自分をコントロールすることもできるようになったものの、やはり手塚の中の蕩けるような熱さと心地よさには毎回目の眩むような思いをしていた。
なんとか深呼吸をして少しは身体も落ち着いたものの、相変わらず手塚の襞が大和にきつく絡み付いて快感を押し上げようとしてくる。
「手塚くん、力、抜いて……。ほら、目を開けて、こっちを見てください?」
そう言って紅潮している手塚の頬に手を添えると、薄らと開かれた瞳はまるで焦点を合わせられないかのように潤って大和を見つめてくる。
普段とはまったく違うその瞳に大和の欲もさらに熱さを増して、もう何も考えず快感に身を任せたい衝動に駆られる。
それでも手塚の奥底にはまだ僅かな不安があることも分かっているから、大和はそんな自分を懸命に抑えて優しく手塚の身体を愛した。
「僕の目を見られますか?」
大和の問いに小さく何度か頷いて、手塚は快感のあまり閉じそうになる瞳を必死に開けて大和を見つめてくる。
その様子があまりに愛しすぎて、大和は手塚の額にかかる淡い茶色の髪をかき上げてそこに口付けをした。
「大好きですよ、手塚くん」
唇を離してそう囁き、そうしてもう一度、今度はツンと上を向いた鼻に唇を落とす。
大和の唇が触れている間に閉じた手塚の瞳が再び開かれたとき、そこには何かを求めるような色が浮かんでいた。
何かを言いたそうに手塚の唇が震えたものの、そこから声が漏れることはない。
「手塚くん?」
どうしました?と訊ねようとしたとき、手塚の顔がゆっくりと大和に近づいてきて、その唇は大和の唇に触れたがっているように僅かに開かれた。
一瞬、大和の身体に緊張が走り、唇が触れ合おうとする寸前に大和は顔を背けて横を向いてしまった。
思わず自分の取った行動にハっとして大和が視線を戻すと、そこには今にも泣きそうな手塚の表情があった。
「て、手塚くん……」
「…………ごめんなさい」
聞き取れないほどに小さく呟いた手塚の瞳から涙が一滴落ちた。
「あ、あの……、いや、その……ですね、手塚くん」
「いえ、いいんです。あの……、ごめんなさい」
「いや、いいんですじゃなくて……んっ」
突然手塚が自分から腰を動かしたことで、急激な快感が大和を襲った。
「ちょ、っ……、手塚く…んっ」
手塚が自分からこんなふうに身体を動かすことなど滅多になくて、それだけに今自分がしてしまったことへの後悔が大和の心を少しずつ侵食してくる。
なんとか堪えようとするものの、もはや深呼吸だけでは抑えられないほどに大和の熱は高まっていた。
手塚が傷ついたことは明らかで、そのせいで無理に身体を動かしたことは、しかしそれまでに感じたことがないほどの絶頂感を二人にもたらした。
身体を繋げあったままでお互いの激しい息遣いを感じているうちに、二人はいつしか眠り込んでしまったらしい。
大和が肌寒さに目を覚ましたとき自分はまだ手塚の中にいた。
そっと身体を引くと手塚の身体が少しの快感を感じたのか小さく震えて唇から甘い声が漏れる。
しかしそれだけで手塚の動きは止まってしまい、また穏やかな寝息を立て始めた。
さっきの自分の行動に対する言い訳をしたいと思うものの、寝ている手塚を起こすことは可哀想だ。
目が覚めたらちゃんと分かるように説明しようと思いながら、再び大和は眠りの中に落ち込んでいった。
そして次に大和が目を覚ましたとき、腕の中に手塚はいなかった。
ベッドにも部屋にもいない。
大和は大きな溜息をついて乱れた髪をさらに掻きむしった。
「つまり、手塚のキスを拒んだと?」
「ええ……」
「そんなことくらいで怒りますか?」
「そんなことくらいじゃないですよっ!」
大和が拳を握って反論してきたことに乾はハっとして、もしや……と頭を過ぎったことを口にしてみた。
「失礼かと思いますが、もしかして……キス、したことないんですか?」
「………………」
「そうなんですか?」
「………………」
「あれだけ淫らなことをしておいて、キス、したことないんですかっ!? 一回もないんですか!?」
「だぁっー!、声が大きいですよ!」
お互いに声が高くなってしまい、慌てて同時に周囲をキョロキョロとしてみる。
そうして大和は口元を不機嫌そうに歪ませて、
「一回もないんです」
と呟いた。
「どうしてですか? 普通、するでしょう?」
「………………」
しかし大和は黙って視線を他所に投げるばかりだった。
しばらくそんな状態が続いて、乾は、きっとこれは大和の内面の問題なのだとそれ以上の深入りはしないことに決めた。
「理由は分かりませんが事情は取りあえず承知しました。手塚を元に戻せるのは祐大さまだけですから。よろしくお願いいたします」
そう言って踵を返して部屋を出ていこうとした乾を大和の切羽詰まった声が呼び止めた。
「とっておきたいんですよ」
「は?」
よく分からない言葉に乾は振り返って首を捻る。
「唇へのキスは、神聖な恋人同士の約束ですから……」
「祐大さま?」
「僕はまだ親の庇護のもとにある身です。だから、いつか自立できたときに、きっと……」
「祐大さま……」
「必ず手塚くんを幸せにできるという自信ができたときに……。そう思ってるんですけど、やっぱり変……でしょうか?」
背もたれに身体を預けてうなだれている大和はなんだか滑稽だった。
しかし乾の頬が緩んだのはその滑稽さ故ではなく、たった今聞いた言葉の意味を悟ったからだ。
「まあ、変と言えば変かもしれませんけど、それが祐大さまのお考えならよろしいかと思います。あとはなんとか手塚に上手く説明しておいてくださいね」
「乾くん……」
「大丈夫ですよ。手塚はおっちょこちょいでもバカではありませんから。それは祐大さまが一番ご存知のことと思いますよ?」
その言葉に大和の表情が「そうですね」とふっと和らぐ。
「すいませんけど、手塚くんを呼んできてもらえますか?」
「今すぐ……ですか?」
「ええ、これ以上食器を割られても困るでしょう?」
乾は一礼して「かしこまりました」と言い残して部屋を後にした。
大和がどんなふうに手塚に話をしたのか分からないが、2時間ばかりして大和の部屋から出てきた手塚は妙に顔を紅潮させてはいたものの、その表情は数日ぶりに見る笑顔になっていた。
しかし無駄に気持ちが舞い上がっていたらしく、その日に割った食器の数は過去最高値に達してしまう。
それでも、まあいつもの手塚に戻ったなとホっとした乾は半べそ状態の手塚と一緒に割れた食器の後片づけをした。
そうして翌日の休憩時間には、手塚の前にクラッシュド・アイスの入ったオレンジ・ジュースが置かれていた。
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